世界大百科事典(旧版)内の小田切備中の言及
【松江藩】より
…藩域は出雲国全体にわたり,能義,意宇,仁多,大原,飯石,出雲,神門,秋鹿,楯縫,島根の10郡であったが,1666年(寛文6)広瀬藩,母里(もり)藩の分封により,84年(貞享1)からは飯石郡24ヵ村,能義郡32ヵ村を広瀬藩領に,能義郡17ヵ村を母里藩領に分割した。松江藩はその初期から財政難に直面させられ,検地,新田開発,殖産興業などの収入増加策や,倹約令,半知などの経費節減を繰り返してきたが,1747年(延享4)6代宗衍(むねのぶ)は小田切備中とともに,積極的な殖産興業政策を主軸にした改革を実施した。しかし藩主による土地領有権の切売りである義田仕法や,趣向方による新案工夫は成功しなかった。…
※「小田切備中」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」