世界大百科事典(旧版)内の山門騒乱の言及
【山門使節】より
…しかし,これらの幕府の政策にもかかわらず,1433年(永享5)に至ると,山門使節と幕府はまっこうから対立し,35年2月まで激しい争いが続く。この永享の山門騒乱とも呼ばれる抗争の原因としては,6代将軍義教の専制政治の他方で,山門使節らが幕府機構の末端に位置付けられながらも,いまだ延暦寺衆徒の代表としての性格を失っておらず,義教の専制政治と対決したことがあげられよう。なお山門使節は,この騒乱を境としてそのメンバーの多くが変わり,騒乱で殺された円明坊,乗蓮坊,杉生坊,月輪院,金輪院に代わって,騒乱後は護正院,西勝坊,行泉坊といった山徒が幕府より山門使節に任命されている。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」