世界大百科事典(旧版)内の川上座の言及
【劇場】より
…客席に突出していた付舞台を失い,上手に竹本の床,下手に下座を固定して定型化したのも明治以降のことである。西欧の劇場の理念の影響をうけて,プロセニアム舞台(額縁舞台)がつくられたのは,96年の川上座(神田三崎町)がはじめといわれている。オーケストラ・ボックスが設置されたのは,1908年11月に高等演芸場という名称を付して竣工した純洋風の有楽座からである。…
【新派】より
…しかし,角藤や川上が中村宗十郎,秋月が市川権十郎,喜多村が嵐璃珏(りかく),高田が尾上卯三郎など歌舞伎役者に私淑してその演技を模倣していたように,実質はけっして新しいものではなかった。だが,機を見るに敏な川上は,94年1月浅草座で当時話題の相馬事件を岩崎蕣花が脚色した《意外》の上演に成功,《又意外》《又々意外》を出して大当りをとり,日清戦争勃発に際しては《壮絶快絶日清戦争》などの戦争劇で歌舞伎座進出を果たし,96年には神田に川上座を建設するにいたった。しかし戦争終結で勢いを失い,99年4月渡米巡業,妻の川上貞奴(さだやつこ)を女優にしたてあげて欧米の地に足跡を残し,帰朝すると江見水蔭翻案で《オセロ》を〈正劇〉と称して上演するなどしていた。…
※「川上座」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」