広島紡績所(読み)ひろしまぼうせきじょ

世界大百科事典(旧版)内の広島紡績所の言及

【官業払下げ】より

…ただし実際には84年1月の油戸炭坑払下げ以降この方針がとられていた。 こうして〈概則〉施行以前の高島炭鉱(1874年,払受人は後藤象二郎,のちに三菱へ譲渡)と施行後の広島紡績所(1882年,同広島綿糸紡績会社)を除き,1884,85年に経営内容の良い官営鉱山を除く政府投資の多額な諸鉱山(中小坂鉄山,小坂・院内銀山,阿仁銅山,大葛金山)を集中的に払い下げ,86年以降赤字の多い模範工場(愛知・新町紡績所など)の払下げがおこなわれ,工部省,内務省所管の工場が次々と払い下げられ,96年9月の佐渡金山・生野銀山(払受人,三菱)の払下げで終了した。〈概則〉の変更・廃止は特権的政商資本にきわめて有利であり,払下げの結果,三井(新町紡績所,富岡製糸場,釜石鉄山(田中長兵衛,のち三井財閥系となる),幌内炭鉱・鉄道(北海道炭坑鉄道,三井系),三池炭鉱(佐々木八郎,直後に三井に譲渡)),三菱(長崎造船所,佐渡・生野など),古河(院内・阿仁),浅野(深川セメント),久原(小坂),川崎(兵庫造船所)などの政商資本家が独占し,操業を開始する。…

【瀬戸内工業地域】より

…近世,大坂市場に直結する内海,古く操船の伝統を含む木造船の建造などから綿業・塩業・採銅や仏壇・縫針・団扇などがあった。明治初期に民営の紡績所,官営広島紡績所ができ,大坂資本の近代紡績が内海へ進出した。これに対抗する地元資本倉敷紡績から発展した機械紡績は88年愛媛・山口県に拡大し,大正末の化学繊維工業は昭和10年代まで地域の主要産業となった。…

【紡績業】より

… 明治政府は,輸入全体の3分の1前後を占める綿製品の輸入を減らすのと綿作の回復のため,紡績業の育成を図り,1878年から労働者数十人で2000錘規模の工場を各地に建設させる政策をとった。模範工場としては官営愛知紡績所と広島紡績所を設立し,一方,イギリスから輸入した2000錘紡績機10基を民間有志に年賦で払い下げ(十基紡),また県・民間の紡績所に資金を貸し付け,さらに内務省技師を技術指導に派遣した。その結果,80年代半ばまでに20ヵ所近い小紡績が開業したが,大部分は経営不振で,むしろ臥雲辰致(がうんたつち)(1842‐1900)が1876年に発明した〈ガラ紡〉が一時的に広まった。…

※「広島紡績所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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