徐光範(読み)ソ・グヮンボム

朝日日本歴史人物事典 「徐光範」の解説

徐光範

没年建陽1(1896)
生年:哲宗10(1859)
朝鮮李朝末期の開化派政治家。日本語読み「じょ・こうはん」。金玉均,朴泳孝と共に開化派を結成し,明治15(1882)年に修信使随員として訪日した。高宗21(1884)年甲申政変に参加したが,挫折して日本に亡命し,やがて甥徐在弼(1866~1951)と共に渡米した。高宗31年甲午改革に際し帰国し,法部大臣,翌年学部大臣に任じた。朴泳孝と共に独自の改革路線を模索したが挫折した。その後駐米公使として赴任し,アメリカで死亡した。徐在弼は1886年にアメリカ市民権を取ったが,高宗32年末帰国し,翌年『独立新聞』を創刊して独立協会運動を支えた人物として知られる。光範も在弼もともに朝鮮の開化に尽力したが挫折した。<参考文献>姜在彦『近代朝鮮の変革思想』

(森山茂徳)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の徐光範の言及

【甲申政変】より

金玉均,洪英植,朴泳孝らは,士官学生や壮士を指揮して国王高宗と王妃の閔妃(びんひ)を守旧派から隔離させ,日本軍の出動を求めて護衛した。5日には開化派を軸とする新政府をつくり,6日には新しい政綱を発表したが,袁世凱が1500名の清軍を率いて武力介入すると日本軍は引き揚げ,孤立無援の開化派は,金玉均,朴泳孝,徐光範ら9名が日本,アメリカに亡命したほか,殺害または処刑された。甲申政変は,開化思想がまだ大衆を把握するまえの,開明的な少数エリートによる突出したクーデタに終わり,日本軍の出動を求めて国王を護衛したため,むしろ大衆の反日感情を爆発させた。…

※「徐光範」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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