世界大百科事典(旧版)内の懲役場の言及
【行刑】より
…1871年(明治4)には刑部省の小原重哉によるホンコン,シンガポールのイギリス獄制視察が行われ,翌年の〈監獄則幷図式〉に結実する。同年,それに先立ち,西洋法を参照して制定された懲役法により,笞・杖が短期自由刑たる懲役に代えられていたが,73年には先述の徒場は懲役場と改称され,同年の改定律例では,流・徒刑も刑期はそのままに(ただし終身が加わる)懲役に一本化された。先の小原監獄則は,従来用いられていた囚獄の語を監獄に変え,独房制を導入し,未決・既決,男女を分けるなど進歩的であったが,財政的理由等から本格的実施をみないまま効力を停止された。…
【懲役】より
… 日本における懲役の語は,西洋法を参照にした1872年の懲役法において,明治新政府下の仮刑律(1868),新律綱領(1870)に定められた5刑のうちの笞・杖に代わる短期自由刑として,まず用いられた。翌年には,旧幕期以来の伝統をもつ受刑者使役刑たる徒刑を執行する場所である徒場を懲役場と名称を変更し,同年の改定律例は,刑名としても徒,流を懲役に変え,終身懲役をも定めた。この懲役が,初の本格的な西洋法の継受である1880年の(旧)刑法では,島地発遣刑の徒・流などとともに,内地の懲役場で定役に服す重罪刑として規定され,刑期によって重懲役(9~11年)と軽懲役(6~8年)に分けられた。…
【人足寄場】より
…ただしこの場合,寄場から出所後も御構場所(おかまいばしよ)への立入りは禁止されたから,追放刑の執行は免除されるのではなく延期されたにすぎず,寄場は法的には最後まで保安処分の施設であった。1841年(天保12)から苦痛の多い重労働である油絞りが作業として取り入れられ,収容者も有罪の無宿が中心となるにおよんで,寄場はいっそう懲役場に近いものとなり,自由刑への実質的変更がさらに進んだといわれる。世界最初の近代的自由刑思想にもとづく懲役場たるアムステルダムの懲役場(1595創設)にも比せられる人足寄場は,逃亡者や出所後の再犯も多かったものの,ある程度無宿人・犯罪者更生の実を挙げて維新に至った。…
※「懲役場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」