世界大百科事典(旧版)内の无声会の言及
【平福百穂】より
…父は円山四条派の画家平福穂庵(1844‐90)。1894年父の後援者であった瀬川安五郎の援助を得て上京,川端玉章に入門,97年東京美術学校日本画選科第2学年に編入,1900年同校卒業後,結城素明らと无声会(むせいかい)を結成,日本画に自然主義的表現を導入することを主張。01年雑誌《新声》,03年《平民新聞》,04年風刺漫画誌《団々(まるまる)珍聞》の表紙や挿絵を描きはじめ,07年創刊の美術雑誌《方寸》に投稿,のち同人となる。…
【明治・大正時代美術】より
…しかし日本美術院の新美術運動は京都の日本画家に大きな刺激を与え,菊池芳文(1862‐1918),竹内栖鳳,山元春挙(1871‐1933)らも西洋画の写生をとり入れ,日本美術院に呼応して新機運の打開に努めることとなる。また結城素明(1875‐1957),平福百穂,島崎柳塢(りゆうう)(1856‐1938)らは東京で无声会(むせいかい)を結成し(1900),西洋画の写生を研究して自然主義的な新しい日本画をもたらすことになる。
[明治美術会と白馬会]
明治10年代の後半,洋画家たちは一時息をひそめたが,この間にヨーロッパに渡った山本芳翠(フランス),原田直次郎(ドイツ),松岡寿(イタリア)らが帰国し,洋画界の新しい活動力となる。…
※「无声会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」