世界大百科事典(旧版)内の日本三津の言及
【安濃津】より
…遅くとも12世紀末葉には伊勢神宮領として安濃津御厨刀禰が設置されていた。元徳期(1329‐31)の〈安東郡専当沙汰文〉には安濃津市の名も見え,後世の記述ではあるが,明の茅元儀の《武備志》日本考では薩摩坊津,筑前花旭塔(はかた)津とともに日本三津の一つとされている。ところでこの津は《日本書紀通証》に〈安濃津,明応中地震後,津遷江浅,而大船難泊〉とあるように,明応7年(1498)8月25日の地震津波で港の機能を失い廃れた。…
【博多】より
…いっぽう1429年(永享1)に博多に進出した大友氏は,息浜に田原貞成を派遣して活発に対外貿易を行った。博多商人たちも朝鮮,明,琉球,東南アジアとの貿易に従事し,博多は国際的な商業都市として繁栄し,薩摩の坊津,伊勢の安濃津(津)とともに日本三津と称された。 応仁・文明の乱(1467‐77)がおこると,少弐氏が筑前を奪回し,博多の西南4000余戸は少弐氏,東北6000余戸は大友氏の支配下に入った。…
【坊津[町]】より
…鹿児島県南西部,川辺郡の町。人口5295(1995)。薩摩半島南西端に位置し東シナ海に臨む。那津,安濃津とともに三津(さんしん)といわれた坊津を中心とする。坊(かつての坊津),泊,久志(くし),秋目の4港はいずれもリアス式海岸に発達した天然の良港で,貿易が衰微した明治以降は漁港に転換した。現在は沿岸漁業や,タイ,クルマエビの養殖漁業が行われている。温暖で無霜のため,ポンカンや野菜の促成栽培,グラジオラス栽培も盛んである。…
※「日本三津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」