世界大百科事典(旧版)内の李義方の言及
【鄭仲夫】より
…当時武臣は文臣に軽蔑され不満がつのっていた。1170年毅宗が郊外に遊幸したとき,彼は護衛にあたっていたが,同行の李義方,李高らの武臣と共謀し,突如として王の一行に襲いかかり随行の文臣を斬り,つづいて王城にかけもどり,生活苦に悩んでいた兵士を扇動して蜂起させ,多くの文臣を殺害追放した(庚寅(こういん)の乱)。さらに毅宗を廃して明宗を立て,一挙に政権を手に入れた。…
【武人政権】より
…また国軍の兵士も生活不安と重い労役に苦しんでいた。そういう不満がつのり,1170年鄭仲夫,李義方,李高らの武臣はクーデタを起こして兵士を蜂起させ,多くの文臣を殺害追放して一気に政権を掌握した(庚寅の乱)。つづいて73年東北面兵馬使金甫当が反対の兵をあげると,それを鎮圧すると同時に,またも文臣を殺害追放した(癸巳の乱)。…
※「李義方」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」