世界大百科事典(旧版)内の武太后の言及
【武周革命】より
…病弱の高宗に代わって政務を決裁してきた武后は,朝廷における実権を掌握してしまい,683年(弘道1)に高宗が亡くなると,武后の子である太子哲が即位して中宗となったが2ヵ月たらずで廃され,つぎに立った睿宗もまったくの傀儡(かいらい)にすぎなかった。武太后は有能な密告者を官に取り立てて秘密警察の網の目を強化し,唐の宗室を排除しつくしたあげく,中国上代の理想の世とされる周朝を再現せんとし,また愛人の怪僧薛懐義(せつかいぎ)らに《大雲経》という仏典に付会した文章を作らせ,〈太后は弥勒(みろく)仏の下生なり,まさに唐に代わって帝位につくべし〉と宣伝させたのである。690年の9月,武太后は,睿宗および臣民こぞっての懇請を受け入れて皇帝となり,国号を周と改め,天授と改元し,睿宗は皇嗣に格下げとなり,武氏の姓を与えられた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」