世界大百科事典(旧版)内の武威漢墓の言及
【中国医学】より
…《黄帝内経素問》(通常《素問》と略称),《黄帝内経霊枢》(《霊枢》)など後世の医学理論の基礎になった書は,これまで漢代に存在したと記録されている《黄帝内経》の一部であり,その内容は漢代の医学思想であると信じられていた。この点についてはこれまで確証は得られなかったが,1972年に甘粛省武威県の後漢初期の墓(武威漢墓)から処方集が,73年湖南省長沙市の馬王堆漢墓3号墓(前168築造)から10種以上の医書が出土して,漢代の医学の発達の状態がかなり明らかになった。 すなわち《素問》や《霊枢》の経脈説は馬王堆の《陰陽十一脈灸経》をさらに発展させたもので,気,血などの考えも導入して,陰陽説や五行説の立場からさまざまの理論付けを試みている。…
【武威】より
…灌漑が発達し農業が盛んで,付近の農産物の集散地でもある。【日比野 丈夫】
[武威漢墓]
漢代武威郡治の所在地であった武威県の城南10~15km,祁連(きれん)山麓台地上に多数の漢墓が群在する。そのうちの一つ磨嘴子(ましし)墓群は数百基からなる。…
※「武威漢墓」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」