法隆寺式伽藍配置(読み)ほうりゅうじしきがらんはいち

世界大百科事典(旧版)内の法隆寺式伽藍配置の言及

【伽藍配置】より

…日本では法隆寺非再建説をとなえた関野貞が,塔と金堂が左右にならび,奥に講堂があり,中門から左右にのびる回廊がこれらをとりまく法隆寺式が最も古く,金堂の前に東西両塔がならぶ薬師寺式がこれに次ぎ,中門から出る回廊が金堂にとりつき,南大門との間に双塔を配する東大寺式,さらに南大門の南に双塔を配する大安寺式がこれに続くと説明した。しかし,1936年石田茂作の発掘で法隆寺西院境内南東部で若草伽藍の存在が明らかとなり,中門を入ると塔,そのうしろに金堂,さらに講堂が中軸線上にならぶ四天王寺式が法隆寺式伽藍配置より古く,7世紀初頭の配置形式であることになった。百済の扶余の発掘調査でも四天王寺式伽藍配置が一般的であることがわかり,この説が正しいかにみえた。…

【法隆寺】より

…再建の伽藍の経済的地盤や方法についてはまったくつまびらかでないが,711年ころには今日みる西院の寺観が整備されたとする説が有力で,722年から一時期支給された封は,付属的な建物などの建立に用いられたとも解せられる。再建の寺構は,金堂・塔などを南北に一直線上に配置する様式を改め,これを東西に配置するいわゆる法隆寺式伽藍配置となった。738年(天平10)4月には永世施入の食封300戸が寄せられた。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」