世界大百科事典(旧版)内の《洛陽牡丹記》の言及
【園芸】より
…中国には前2世紀ころから,シルクロードを通って西域から多くの野菜類,果樹類がもたらされ,中国原産の植物の栽培化とあいまって,重要な野菜類,果樹類が育成された。単一の花卉を扱った初期の専門書には宋代の欧陽修の《洛陽牡丹記》,劉蒙の《菊譜》や李衎の《竹譜詳録》(1300)がある。花卉を集大成した王路の《花史左篇》(1618)や陳扶揺の《秘伝花鏡》(1688)は,江戸時代の日本の園芸書に大きな影響を与えた。…
【ボタン(牡丹)】より
…宋代には牡丹植栽の中心は洛陽にうつる。とくに中原中心の洛陽城内の地気が花の王者牡丹に一致すると,欧陽修が《洛陽牡丹記》で喧伝したことは,後世に大きな影響を与えた。すでに五代後梁の于兢(うきよう)をはじめ,蜀の黄居寀(こうきよさい)(933‐?)らは牡丹を画題に名をあげていたが,牡丹太湖石,牡丹と鶴や猫の絵も好んで描かれるようになり,また宋白(936‐1012)は自作の牡丹詩10首を石に刻し,郭延沢(かくえんたく)は牡丹詩1000余首を詠むなど詩人にももてはやされた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」