世界大百科事典(旧版)内の浦戸一揆の言及
【浦戸】より
…土佐における南北両党の抗争は1336年(延元1∥建武3)1月の浦戸合戦をもって始まり,戦国期には背後の半島状丘陵に本山氏が築城,1560年(永禄3)以降長宗我部氏の支城,ついで91年(天正19)ころ本城となり,不十分ながら城下町が形成される。1600年長宗我部除封に当たり一領具足を中心とする一揆軍が籠城したが間もなく鎮圧(浦戸一揆),03年高知移転まで山内一豊が在城。廃城以後の近世浦戸は水主(かこ),漁師,商人の村となるが,城下高知の海門を扼するため船の出入りを規制する〈浦戸湊口可改定〉が90年(元禄3)定められるなど特殊性をもつ有力商港・漁港として存続した。…
【土佐国】より
…【下村 効】
【近世】
関ヶ原の戦後,土佐24万石(朱印高は20万石)の国主となったのは,遠江国掛川の城主山内(やまうち)一豊である。一豊は1601年(慶長6)浦戸城に入ったが,それに先立ち,一領具足(兵農未分離の長宗我部氏下級家臣)たちが明渡しを拒否して抗戦し273名が討死する,いわゆる浦戸一揆が起こった。一揆後,長宗我部家臣団の上層部は出国,一領具足層は帰農して兵農分離が実現した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」