世界大百科事典(旧版)内の渡辺澄夫の言及
【集落】より
…一方,集村については,条里制の追求によって集落との関係が32年以降米倉二郎によって明らかにされ,小川琢治によって指摘された垣内式村落は,平城京の宅地割にみられる4行8門,または3行9門,4行7門の様式を農村計画である条里地割の方1町に適用したものであり,方6町36ヵ坪の条里の里の1ヵ里の中心部の1町または2町が宅地に当てられることが理想であったであろうと指摘した。この考えは,第2次大戦後この種の環濠集落である大和の若槻庄(現,大和郡山市)の集落についての史料による歴史地理的復原を渡辺澄夫が行った結果,直接的にはこの宅地割が古代の条里制施行時にまでさかのぼることの可能性が少なくなったが,なお当初の地割の理想像として存在したとする仮説は生きていると考えてよい。以降の村落研究は,村落形態においても時代的変化を織り込んだフランス学派の立場にたった史的追求がなされ,古代末に小村~疎塊村が形成され,それが中世には集村へと移行したとする論に傾いてはいるが,なお永原慶二によって出された中世散居小村論との基本的関係については,今後の重要な検討課題として残されている。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」