世界大百科事典(旧版)内の湛水親方の言及
【沖縄[県]】より
…ナヨリとも)などが行われ,また,饗宴の席などでは当時全盛のオモロが赤犬子(あかいんこ)などの歌人によってうたわれたようだが,当時中国から三弦が伝来し,やがて三線(さんしん)とよばれて宮廷奉仕の士族たちがつま弾くようになるとオモロはすたれ,かわりに8・8・8・6調の短歌(琉歌とよぶ)を士族たちがつくって,それを三線にのせてうたうようになった。16世紀にはこの三線が本土へ渡って三味線を生むことになるが,宮廷では17世紀に湛水親方(たんすいおやかた)が出て三線歌曲の芸術化が急速に進み,18世紀には聞覚(もんかく),屋嘉比朝寄(やかびちようき)などが工工四(くんくんしい)と称する楽譜を編み,また19世紀には野村安趙が野村流を,安富祖(あふそ)正元が安富祖流を興して,近代の三線音楽を確立した。 舞踊は16世紀ころ,宮廷奉仕の若衆(わかしゆ)(未成年男児)が新国王の冊封に来琉する明国の冊封使を饗応する宴席で,華麗な扮装で踊りを披露し,17世紀にも童児の群舞が行われた。…
※「湛水親方」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」