世界大百科事典(旧版)内の満鉄事件の言及
【満鉄調査部】より
…また調査部による膨大な収集資料と調査研究のなかには今日でも学問的価値を有するものもあるが,全体としてその総合調査は中国,東南アジア,ソビエトへの侵略をめざす当時の日本の国策の枠組みを超えるものではありえなかった。そして41年12月太平洋戦争の開戦後,戦局の悪化にともなって調査そのものの有効性がしだいに失われ,さらに42年9月と43年7月の2度にわたる憲兵隊による左翼グループ(堀江邑一,具島兼三郎,鈴江言一,石堂清倫ら44人)調査部員検挙(満鉄事件)によって調査部は事実上解体される。その間,1943年5月に調査部は調査局に改組縮小されるが,45年8月,日本の敗戦とともに最終的に消滅した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」