世界大百科事典(旧版)内の片倉組の言及
【片倉兼太郎】より
…片倉組の創始者。信濃国諏訪郡川岸村の豪農片倉市助の長男に生まれ,1876年家督を継いだ。…
【生糸】より
…器械製糸家は生産費の8割前後を占める原料繭の購入価格の引下げにも力を注ぎ,共同購繭を行った。こうして横浜生糸売込問屋に多額の手数料や利子をとられ,浮沈を繰り返しながらもしだいに経営を拡大する者が現れ,09年には片倉組,岡谷合資,小口組,山十組,山一林組,尾沢組の六大製糸(いずれも諏訪地方)の横浜出荷量は全体の12.6%を占め,片倉組の釜数=繰糸女工数は4282に達した。 第1次大戦を画期に日本の生糸輸出はアメリカ向けを中心に急増し,29年には約58万俵(60kg俵)と大戦前の3倍以上の水準に達し,中国その他を大きく引き離した。…
【養蚕】より
… 第1次大戦は日本の養蚕業に大きな変化をもたらす契機となった。まず日本種,中国種,ヨーロッパ種のうちの二つを交配して作った一代交雑蚕種が,蚕業試験場や三竜社,片倉組,郡是製糸その他の努力で普及し,優良品種による蚕種統一が実現されていった。これは単位蚕種量当りの収繭量を急増させたうえ,繰糸能率の向上にも役だち,日本製糸業が中国,イタリア製糸業を大きく引き離す基礎となった。…
※「片倉組」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」