世界大百科事典(旧版)内の率分関の言及
【四宮河原】より
…南北朝期には後白河院御影堂(みえいどう)領としてその名が見え,応仁の乱ごろは山科七郷の一つとして,竹内門跡(曼殊院)の支配下にあった。また,交通の要地であったところから,中世には内蔵(くら)寮の支配する率分関(そつぶんせき)が設けられ,1333年(元弘3)の〈内蔵寮領目録〉に〈東口四宮川原率分沙汰人等初任見参料三貫文,毎月御公事一貫五百文,御薪三百把〉とあり,園城寺がその沙汰人職にあたっていた。《師守記(もろもりき)》に〈小関〉と見えるのはこの率分関のことである。…
【率分所】より
…上記の左中弁以下の勾当は,本来大蔵省の収納物の出納を管理していたメンバーと同じであるから,はじめ大蔵省の正蔵(正倉)と率分の調庸の両方の出納にたずさわっていた組織が,大蔵省の機能が無実化するにしたがい,大蔵省に代わる機関として,率分の調庸のみでなく正蔵の収納物をも管理するものとなったのが,率分所といわれるものであったと推定される。【早川 庄八】
[中世]
〈率分関(そつぶんせき)〉ともいう。内蔵寮などの中央官庁が,地方国衙から上納されてくる通常経費の不足分を補う目的で設置した関所。…
※「率分関」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」