世界大百科事典(旧版)内の玉造浜村の言及
【霞ヶ浦四十八津】より
…平安末期から南北朝期,霞ヶ浦・北浦・利根川の津々の海夫は,香取社に供祭料を貢進,漁猟・交通上の特権を保証され,戦国期から江戸初期には,湖の入会を大原則とする自治組織を形成する。その一,霞ヶ浦四十八津は1625年(寛永2)に設定された水戸藩の玉里(たまり)御留川に対し,入会の原則を固守して頑強に抵抗,1650年(慶安3)漁期・漁具の制限,定例の会合日等の慣習を,南津頭古渡(ふつと)村,北津頭玉造浜村をはじめ津々連判の上,掟書とした。しかし地先占有漁場を求める村々の動きが強まり,入会の原則は徐々に空洞化,1726年(享保11)以後数回の連判も空しく,江戸後期には霞ヶ浦・利根川口の水はけに障害となる漁具を撤去する漁業統制組織に変質,1831年(天保2)幕府の水行直普請(水はけの改修工事)に当たり,その下部組織とされ,衰滅していった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」