世界大百科事典(旧版)内の田総氏の言及
【小童保】より
…保司職は〈承徳開発寄進本主〉とされる社僧勝尊ののちその門流に相承されたが,鎌倉期に入ると一族間の抗争から時の執行(しゆぎよう)の介入を招き,複雑な伝領過程をたどった。地頭職は1223年(貞応2)御家人包俊の改易跡をうけて備後国守護長井時広が補せられ,次子泰重を経て庶流田総氏に伝えられた。鎌倉後期には下地中分が実施された。…
【長井氏】より
…幕府滅亡後も建武政権に参加し,さらに室町幕府に仕え奉公衆に名をつらねているが,往年の勢威は失った。庶子家としては,泰重の第3子重広を祖とする田総(たふさ)氏,泰茂(時広の第5子)の第2子頼秀を祖とする福原氏などが分立し,田総・福原氏はともに備後の国人領主として勢力を有していたが,やがて戦国大名毛利氏の家臣団に編入され,重臣として厚遇された。【小泉 宜右】。…
【備後国】より
…守護職を相伝した系統は六波羅評定衆を兼ね,在京した。泰重の子頼重の弟重広の系統は田総荘以下を相伝して田総氏を名のり,泰重の弟泰茂の子頼秀の系統は長和荘西方などを相伝した。大田荘地頭三善氏では康信の死後,康継が大田方,康連が桑原方を継ぎ,以後それぞれの系統が相伝した。…
※「田総氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」