田谷窟(読み)たっこくのいわや

世界大百科事典(旧版)内の田谷窟の言及

【坂上田村麻呂】より

…【高橋 富雄】
[田村麻呂をめぐる伝承]
 田村麻呂が東山で僧延鎮(もと賢心)と会い,力をあわせて観音像を作り,仏殿を建ててこれを安置し清水寺と号したことは《清水寺縁起》(伝藤原明衡作),《今昔物語集》,《扶桑略記》などに見え,中世に入っても多くの書物に散見する。《吾妻鏡》は田谷窟(たつこくのいわや)(現,達谷窟)について述べる中に〈田村麿・利仁等の将軍〉が蝦夷征伐のとき,敵主悪路王(あくろおう)・赤頭(あかがしら)たちがこの窟に柵を構えたとし,のち,田村麻呂が窟前に堂を建て西光寺と号して,鞍馬に模して多聞天(毘沙門天)像を安置した(文治5年(1189)9月28日条)と伝える。《鞍馬寺縁起》に藤原利仁が鞍馬の毘沙門天の加護で下野国の群盗を平定した由が見えるから,《吾妻鏡》の記事は田村麻呂伝承が利仁伝承や鞍馬の毘沙門天信仰とも交渉をもっていたことを示している。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」