世界大百科事典(旧版)内の田辺藩(丹後)の言及
【田辺】より
…天正年間(1573‐92)織田信長の丹後攻略の際,細川藤孝が城郭を建設して田辺城としたが,鶴が舞うような姿であるとして舞鶴城とも言う。関ヶ原の戦後,京極高知が入部するが,1622年(元和8)高知の遺言で宮津藩12万7000石を3分轄,次男高三が加佐郡121ヵ村3万5000石を領して田辺藩が成立した。68年(寛文8)高盛の但馬への転封によって牧野氏がこれに代わり,明治維新まで継続した。…
【丹後国】より
…宮津藩領は京極氏以降,天領―永井氏―天領―阿部氏―奥平氏―青山氏と支配が変遷したが,1759年(宝暦9)遠江の浜松より本庄氏が入部し,以来7代相ついで廃藩となった。田辺藩は1668年(寛文8)京極高盛が但馬豊岡へ転封のあとへ,摂津より牧野親成が入封し10代を経て廃藩となり,峰山藩は京極氏(12代)で一貫した。宮津藩のように青山氏4万8000石,阿部氏9万9000石と石高に大きな違いがあった場合,藩主の知行高に合わせるために,藩領の村々を一時他の天領に編入させたり,また復帰させたりすることがあった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」