世界大百科事典(旧版)内の甲斐源氏の言及
【甲斐国】より
…10世紀以後,甲斐でも各地に貴族や寺社の荘園が立てられ,国衙領を侵食していくが,12世紀の中ごろ,八代(やつしろ)荘をめぐって紀伊熊野神社と国衙との間に激しい衝突があり,裁判の結果国衙側が大敗するという事件も起きた(長寛勘文)。これら荘園や黒駒の伝統をもつ牧場地帯を根拠として甲斐源氏が勃興する。源義光の子義清・清光父子は,1130年(大治5)ごろ常陸国武田郷を追われて当国市川荘に土着し,さらに巨麻郡北部の牧場地帯へ進出した。…
【清和源氏】より
…しかし義綱の系統は源氏内紛の中で消滅した。また義光の系統からは常陸源氏の佐竹氏や甲斐源氏(武田氏・安田氏・逸見氏等)が出ており,義家の子義国の系統から上野の新田氏,下野の足利氏が成立した。
[武家政権の樹立]
1156年(保元1)の保元の乱で源氏一門は崇徳上皇方に立った為義(義親の嫡男)やその子為朝らと,後白河天皇方に加わった義朝(為義の長子)とが敵味方に分かれて戦い,義朝は戦勝によってその政治的地位を高めたものの,一門のほとんどを失った。…
※「甲斐源氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」