世界大百科事典(旧版)内の番禺の言及
【東西交渉史】より
…また6~7世紀における突厥(とつくつ)の勃興に伴って,天山北麓よりアラル海,カスピ海の北岸地帯を経て東ローマに至る〈草原の道〉も,〈オアシスの道〉と並んで再び脚光をあびるに至った。 これに対して〈海の道〉は,前3世紀の末,当時〈番禺〉と呼ばれた現在の広東が中国人によって征服され,前2世紀後半にインドシナ半島の北部までが中国の領土となると,この番禺を中心に,中国人の南海貿易も開始され,紀元前後には,南海の商船が,犀角,真珠,象牙などの珍品を積んでこの港に到着した。一方,西方のギリシア人,ローマ人たちも,1世紀中ごろ以降,季節風を利用して盛んにインド洋に進出し,同じころには《エリュトラ海案内記》と題する,航海の実体験にもとづく南海地方の周航記も残されている。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」