白井矢大夫(読み)しらいやだゆう

世界大百科事典(旧版)内の白井矢大夫の言及

【庄内藩】より

…90年(元禄3)以後家臣に上米を課したが,財政難は解消せず,1776年(安永5)忠徳(ただあり)は酒田の豪商本間光丘を登用したが成功しなかった。96年(寛政8)郡代白井矢大夫を中心に農政改革を断行,貸付米金の切捨て,地主に対する困窮与内米の賦課,村上地(むらあげち)の主付(ぬしつけ)によって農村を立て直し,財政は安定して,江戸神田の上屋敷の所在地にちなんで神田大黒の異名を得た。1805年(文化2)藩校致道館を創立したが,学風は徂徠学であった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」