世界大百科事典(旧版)内の真崎稲荷の言及
【茶店】より
…京都の茶店は《雍州府志》(1682)によると,祇園社内の2軒の店と北野社門前の店に始まるとされ,〈二軒茶屋〉の名で知られた前者の〈祇園豆腐〉と後者の粟餅は,江戸初期すでに著名なものであった。江戸では明暦の大火(1657)後,浅草待乳(まつち)山聖天宮門前の茶店が奈良茶(茶飯)を売り出して評判となり,宝暦年間(1751‐64)には隅田川右岸の真崎(まつさき)稲荷社内の茶店が田楽を売物にして客を集めた。つづく明和(1764‐72)ごろからは笠森稲荷(谷中)や浅草寺の境内その他の茶店が美しい看板娘を置いて評判になり,笠森お仙,難波屋おきたなどは錦絵にも描かれてその名をうたわれた。…
【田楽】より
…東海道では近江の石部・草津間の目川(めがわ)の茶屋が,菜飯(なめし)田楽と呼んで売ったものが評判で,これは〈目川(女川)菜飯〉を称する店を各所に続出させた。ほかに江戸では真崎(まつさき)稲荷(現,荒川区南千住3丁目)境内の田楽茶屋,および神田鎌倉河岸の酒店豊島屋のものが名高かった。前者は美味をうたわれた吉原豆腐を用い,後者は自店で豆腐をつくり,それをすべて田楽にして店頭の立飲み客に売ったもので,大きいところから大田楽の名を得て人気があり,〈真崎で豊島屋を云ふ下卑たこと〉という川柳がある。…
※「真崎稲荷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」