社会民主連合(日本)(読み)しゃかいみんしゅれんごう

世界大百科事典(旧版)内の社会民主連合(日本)の言及

【55年体制】より

… なるほど,スカラピノらが指摘したように,社会党の勢力は,得票率,議席率で自民党の半分程度にすぎず,実態は,〈11/2政党制〉であったが,社会党は,急速な発展を遂げつつあった都市を基盤とし,青年層の強い支持を受け,東京・神奈川などで自民党をしのぎ,議員の平均年齢も自民党議員を下まわるといった点で,〈未来の政党〉としてのイメージを色濃くもち,しかも,国際的な冷戦構造に対応して,国内の革新・平和勢力の結節点を形成し,同党の引き続く躍進は,ほとんど既定の事実とさえみえるといった状況が,自社両党体制の有意性を支えていた。
[野党の多党化]
 しかし,一方で,60年代以降の経済的繁栄,有権者の世代交代,労組組織率の低下,高齢化の進行,他方で72年5月の沖縄復帰の実現,同年9月の日中国交正常化達成に関する日中間の合意成立,それに基づく78年8月の日中平和友好条約の調印,国際政治の多極化動向などの国の内外の政治的・社会的変化を背景に,自社2極体制の有意性が薄れ,1959年末に社会党から離党した西尾末広グループによる60年1月の民社党,77年に同じく社会党を離れた江田三郎グループによる社会市民連合(翌1978年に田英夫グループが合流して社会民主連合と改称)の結成,この間の1964年の公明党の登場などによって,野党の多党化が顕著に進み,自民反対勢力のなかでの社会党の地位は80年代に入ってとみに沈下し,自社両党を軸とする政治運営の枠組みとしての55年体制は,80年代半ばにほぼ崩壊状態に陥った。そのなかで浮彫りにされてきたのが,自民党の一党優位制である。…

【日本社会党】より

…党員数も停滞ぎみで,機関紙《社会新報》日刊化も実現されず,いずれも共産党や公明党から大きく水をあけられ,加えて党の主要な基盤であり実質的に党活動を支え代位してきた総評も民間組合員数では民社党支持の同盟に抜かれ,従来保ってきた野党第一党としての指導性は後退した。 これらの結果,党の方針である全野党共闘も,共産党と公明,民社両党との対立に牽引されて実現せず,公明,民社に接近した副委員長江田が77年3月に離党し,ついで離党した田英夫らは78年3月に社会民主連合を結成するに至る。80年1月,党は前年の総選挙で進出した中道に接近し,共産党を除外する政権構想を採択して社公民路線に踏み切り,2月の第44回大会では〈道〉の見直しを決定したが,党内左右両派の対立は解消せず,飛鳥田一雄委員長の提唱した〈百万党建設〉も進展しなかった。…

※「社会民主連合(日本)」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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