神保慶宗(読み)じんぼよしむね

世界大百科事典(旧版)内の神保慶宗の言及

【放生津】より

…この間,義材の放生津御座所を越中御所,義材を越中公方と称し,放生津には幕府奉公衆や奉行人,さらに公家衆も多く下向し,また伊勢貞仍(さだより),飛鳥井雅康,宗祇らの文人も来訪,活況を呈した。そののち長誠の子神保慶宗は長尾為景を主力とする越後,越中,能登3ヵ国守護方同盟軍と対戦し,1519年(永正16)放生津は戦乱の被害をうけ,為景の退去とともに復興が図られたが,翌年為景の再攻で慶宗は敗死,放生津の再建も挫折した。しかしやがて湊町としての繁栄を取り戻し,76年(天正4)上杉謙信の越中支配においては放生津で〈楽市座〉が認められている。…

※「神保慶宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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