世界大百科事典(旧版)内の神保長誠の言及
【神保氏】より
…1443年(嘉吉3)に神保国宗が守護代としてみえるのが越中での初見史料で,以後,放生津を拠点として婦負(ねひ),射水(いみづ)2郡に勢威を張る。神保長誠(ながのぶ)は畠山政長の執事として,畠山義就に対抗,67年(応仁1)京都上御霊社に挙兵して応仁・文明の乱の口火を切った。長誠は紀伊でも守護代を務め,93年(明応2)の政変では足利義稙(材)を放生津に迎え,その擁立をはかった。…
【放生津】より
…しかし畠山氏の分裂抗争のため,1455年(康正1)家督を継いだ義就派の攻撃で,政長派の神保国宗が放生津城から撤退したこともある。93年(明応2)細川政元のクーデタで将軍を廃され幽閉された足利義材(よしき)(足利義稙(よしたね))は,同年6月に脱出して放生津の神保長誠(ながのぶ)のもとに拠り,再起を図って,98年まで滞在した。この間,義材の放生津御座所を越中御所,義材を越中公方と称し,放生津には幕府奉公衆や奉行人,さらに公家衆も多く下向し,また伊勢貞仍(さだより),飛鳥井雅康,宗祇らの文人も来訪,活況を呈した。…
※「神保長誠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」