世界大百科事典(旧版)内の米倉二郎の言及
【集落】より
…砺波の散村については,1915年牧野信之助によってその起源は越中加賀藩の村落制度であるとの反論がなされる一方,31年村松繁樹がドイツにみられるような地味の不均質性がないことと,扇状地のために開拓がおくれた新開地に多くみられる散村と同一の性格であるとする論などが出された。一方,集村については,条里制の追求によって集落との関係が32年以降米倉二郎によって明らかにされ,小川琢治によって指摘された垣内式村落は,平城京の宅地割にみられる4行8門,または3行9門,4行7門の様式を農村計画である条里地割の方1町に適用したものであり,方6町36ヵ坪の条里の里の1ヵ里の中心部の1町または2町が宅地に当てられることが理想であったであろうと指摘した。この考えは,第2次大戦後この種の環濠集落である大和の若槻庄(現,大和郡山市)の集落についての史料による歴史地理的復原を渡辺澄夫が行った結果,直接的にはこの宅地割が古代の条里制施行時にまでさかのぼることの可能性が少なくなったが,なお当初の地割の理想像として存在したとする仮説は生きていると考えてよい。…
【集落地理学】より
…またグラートマンR.Gradmannは20世紀初頭から南ドイツをフィールドとして植物群落と居住との諸関係について歴史地理学的考察を進め,1910年代以降の集落研究に大きい影響を与えた。日本でもこの時期に小川琢治や小田内通敏などによって集落研究が本格化し,30年代には米倉二郎によってマイツェンの方法論が古代条里村落の復原に導入された。しかし20世紀後半には研究の重心が従来の形態学的・発生学的分析から,機能とその社会経済的要因分析に移った。…
※「米倉二郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」