粟屋元隆(読み)あわやもとたか

世界大百科事典(旧版)内の粟屋元隆の言及

【若狭国】より

…武田氏は41年(嘉吉1)信賢が初めて小浜に入って以来,歴代領国の支配強化につとめるとともに,朝廷・幕府の伝統的権威との結びつきをはかり,応仁の乱をはじめとする軍陣にしばしば上洛して転戦し,その武威を発揮した。しかし元信時代の1502年(文亀2)には国衆・百姓らが苛政に反対して守護方を攻撃し,元信の子元度らを討死させる事件も起こり,元光の時代の27年(大永7)将軍義晴,管領細川高国側に属して柳本賢治,三好政長らと戦った西七条専勝寺の合戦に惨敗したころから,その勢威はかげりを見せはじめ,彼の晩年には家督争いにからんだ重臣粟屋元隆の反乱も起こった。子の信豊が42年(天文11)畠山政国にくみして出兵し,河内国太平寺の戦で大敗北を喫してのちは,再び勢力を挽回しえず,次の義統の時代にかけて牢人の侵入や家臣らの反抗に悩まされた。…

※「粟屋元隆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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