世界大百科事典(旧版)内の聖一派の言及
【弁円】より
…東福寺が禅・天台・真言3宗の兼修道場であったごとく,弁円の禅風も天台密教と無準から継承した揚岐派の臨済禅との教禅兼修的ではあったが,栄西の禅風を一歩すすめ,禅を基調とする立場を鮮明にしている点に特色がある。彼の門下には旧仏教を学んだ者が多く集まり,その中から東山湛照(たんしよう),蔵山順空,白雲慧暁(えぎよう),無関普門,無住道暁など,多数の禅傑を輩出して聖一派を形成し,日本の臨済禅の発展に大きく貢献した。弁円は寂後,1311年(応長1)花園天皇から聖一国師の勅諡号(ちよくしごう)を受けたが,これは日本における国師号の嚆矢(こうし)である。…
【臨済宗】より
…また,宋からの渡来禅僧も密庵の法系が多かったから,総じて日本に流入した臨済宗は,楊岐派,なかでも密庵系であったということができる。鎌倉の寿福寺を中心とする栄西,京都東福寺を中心に聖一(しよういち)派という大門派を形成した弁円らは,ともに若くして天台教学を修めていたから,彼らの請来した臨済禅は,顕密禅三教融合の習合禅とでもいうべきものであったが,鎌倉中期以降,宋より渡来した蘭渓道隆,無学祖元らの宋僧は,鎌倉の建長寺,円覚寺を本拠に,本場の純粋禅を挙揚(こよう)し,執権北条氏をはじめ,鎌倉上級武将の帰依を受けた。南北朝期以降,五山・十刹の制度が確立していくが(五山・十刹・諸山),和風の習合禅も夢窓疎石(むそうそせき)らによって隆盛におもむき,足利将軍家や守護大名らの保護のもとに,夢窓門派は五山叢林を制覇し,室町時代の臨済宗の主流を占めた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」