脂派(読み)やには

世界大百科事典(旧版)内の脂派の言及

【色】より

…どのように表現するかということと同時に,どのように見るかということが,画家たちの色彩の使用を大きく規定するのである。西欧の油絵の技法を受け入れた日本の近代絵画において,フォンタネージの弟子たちを中心とした明治美術会と,黒田清輝を中心とする白馬会とは,ともに写実主義を基本理念として奉じていたが,手本とした西欧の範例が違っていたため,ものの見方が違っており,色彩表現においても,それぞれ〈脂(やに)派〉〈紫派〉と呼ばれるほどの相違を見せた。このようなものの見方は,画家の個性のみならず,社会的・文化的条件にもよる。…

【印象主義】より

…しかし,それらはあまり大きな反響を呼ばず,むしろ黒田たちの折衷主義の方が迎えられたのである。この新風は,96年,東京美術学校に西洋画科が設けられて黒田がその主任となり,またそれまでの明治美術会に対して黒田を中心とする白馬会が結成されるに及んで大きな力となり,従来の旧派,脂(やに)派に対して,新派,紫派と呼ばれて,その後の日本洋画の中心的傾向となった。この傾向は,黒田の弟子の岡田三郎助,和田英作(1874‐1959),湯浅一郎(1868‐1931),中沢弘光(1874‐1964),藤島武二らに受け継がれ,青木繁も,一時印象派風の海浜風景を描いた。…

【外光派】より

…後者は,バスティアン・ルパージュJules Bastien‐Lepage(1848‐84),コランなどで,イタリア,ドイツ,ロシアなどにもその影響が及んだ。日本ではコランに学んだ黒田清輝,久米桂一郎によって明治20年代後半(1890年代)にもたらされ,陰影部分に紫を用いたことから紫(むらさき)派,また新派と呼ばれ,それ以前の明治初期以来の洋画家たちを脂(やに)派,旧派と呼んだ。日本の外光派は明治30年代白馬会に結集し,旧派を圧倒して大正期まで日本洋画界の主流を形成した。…

【黒田清輝】より

…96年,滞仏時代からの僚友久米桂一郎(1866‐1934)や周辺に参集した若い画家たちとともに白馬会を結成,同年東京美術学校西洋画科新設のときその指導を委嘱され,98年教授に就任した。コランに学んだ画風はフランス・アカデミスムと印象派的表現を折衷したもので外光派とよばれ,既存の明治美術会系の硬化した写実主義的作風と対立し,旧派に対して新派,陰影部の描写法から脂(やに)派に対して紫派ともよばれた。その間に《朝妝》が裸体画問題で社会的事件ともなったが,帰国後の作品では《舞妓》(重文)や《昔語り下画》《湖畔》などを発表,白馬会の若い画家たちに影響を与え,和田英作《渡頭の夕暮》など明治期洋画の秀作を生むことになった。…

【白馬会】より

…結成の年最初の展覧会を開き,1910年に第13回展を開催して解散した。世間から新派あるいは紫派と呼ばれたこの会は,文芸界の浪漫主義思潮に呼応して勢いを伸ばし,旧派あるいは脂派(やには)と呼ばれた明治美術会を圧倒して洋風美術の主流になった。付属機関として設けられた白馬会絵画研究所が美術家養成に果たした役割も小さくない。…

※「脂派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」