世界大百科事典(旧版)内の芝村騒動の言及
【大和国】より
… 近世後期,百姓一揆が起きたが,村落分立や住民の保守気質がこれの大挙を阻んだ。1753年(宝暦3)芝村藩預り支配の十市郡葛本村ほか8村が協議して年貢減免と預り替えを京都所司代に箱訴(はこそ)し,翌年には同藩領の村もこれに加わったため,庄屋年寄衆をはじめ村民200余人が一味徒党の罪で処断されたのが大騒動だが,これは天領が大名預所となり,過重課税となったので是正をもとめたものである(芝村騒動)。また1818年(文政1)幕府直領の吉野郡では旗本中坊氏の知行する竜門郷(中坊氏知行は15村)で領下14村(1村は不参)の百姓数百人が結集,代官浜島清兵衛の誅求の非を強訴し,浜島を殺害するにいたった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」