芭蕉復興(読み)ばしょうふっこう

世界大百科事典(旧版)内の芭蕉復興の言及

【蝶夢】より

…はじめ望月宋屋に接したが,1759年(宝暦9)の越前敦賀(つるが)旅行を契機に地方系蕉門俳壇に移って,京の同俳壇の中心となり,寺町帰白院11代住職を辞して,68年(明和5)洛東岡崎に草庵を結ぶ。以後は芭蕉復興の俳諧活動に専念,例年義仲寺(大津市)で営む芭蕉忌を中軸とした芭蕉顕彰運動を全国的規模で展開して,70年には同寺の芭蕉堂を再建する。組織力にすぐれ,諸事業を通じて諸国俳人の蕉風化を進め,93年(寛政5)の芭蕉百回忌法要はその達成といえる。…

【天明俳諧】より

… 早くは長水らの《五色墨》(1731)が江戸座俳諧に背いて平淡を重んじたが,本格化したのは宝暦年間(1751‐64)からで,江戸では蓼太(りようた)が江戸座を批判し,京では嘯山が《俳諧古選》で広く元禄諸家の風に学べと説いた。江戸座・貞門・談林派(都市系俳諧)の過度の技巧や遊戯化,美濃派伊勢派(地方系俳諧)の平板卑俗化への反発に出るが,決して統一された運動ではなく,各人共通の意識は〈芭蕉復興〉のみであった。芭蕉塚建立などの追遠行事や作品・伝記研究として芭蕉五十回忌(1743)ごろから具体的な形をとり,七十回忌(1763)には急速に顕著になり,京の蝶夢(ちようむ)の義仲寺護持や芭蕉作品の整備に結実して気運を高めた。…

※「芭蕉復興」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」