朝日日本歴史人物事典 「若狭局」の解説
若狭局
平安末期,高倉天皇の女房。本名平政子。建春門院(平滋子)の乳母。丹後局(高階栄子・浄土寺二位)の母,僧澄雲(高階氏)の妻,平正盛の娘,忠盛の妹と推定される。安元1(1175)年,肥前国松浦荘(佐賀県)を建春門院,次いで最勝光院に寄進し預所職となる。嵯峨に一堂を建立し,治承2(1178)年および元暦1(1184)年の供養には後白河上皇も参列している。高倉天皇に対しても乳母的な地位にあって隠然たる力を有し,「執権の人」と称された。<参考文献>西井芳子「若狭局・平政子―平氏政権背後の権勢者―」(『角田文衛博士古稀記念古代学叢論』)
(西村隆)
若狭局
鎌倉前期の女性。比企能員の娘。2代将軍源頼家との間に一幡をもうける。建仁3(1203)年9月2日に比企能員は北条時政邸で謀殺され,比企一族も一幡の小御所で滅亡した。『吾妻鏡』は一幡もその場で死亡したとするが,母の若狭局が抱いて逃れ,11月3日に北条義時の郎等に捕らえられ殺されたとする『愚管抄』の記事を信ずるべきであろう。
(美川圭)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報