世界大百科事典(旧版)内の薩摩座の言及
【薩摩外記】より
…2代目があり,歌舞伎浄瑠璃を語ったと伝える。外記節は享保(1716‐36)以後滅びたが,劇場名の外記座は薩摩座と名を変え,1872年(明治5)まで続いた。【竹内 道敬】。…
【猿若町】より
…都市の消費経済の締付け政策をとった天保改革により,1841年(天保12)から42年にかけて,堺町の中村座,葺屋町の市村座,木挽町の河原崎座(森田座)の江戸三座が,江戸の市外地である浅草聖天町,小出信濃守の下屋敷跡へ移転を命じられた。その地が猿若町と名づけられ,1丁目に中村座と人形浄瑠璃の薩摩座が,2丁目に市村座と人形浄瑠璃の結城座(ゆうきざ)が,3丁目に河原崎座が建築され,明治初年まで,江戸の歓楽街として繁栄した。人形浄瑠璃2座は慶応年間(1865‐68)にこの地を出たが,1872年守(森)田座が新富町に,84年猿若座(中村座)が鳥越町に,92年市村座が下谷二長町に移転,興行街としての使命を終えた。…
※「薩摩座」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」