世界大百科事典(旧版)内の藤原宗成の言及
【伊予親王】より
…しかし桓武天皇没後の807年10月に政治的陰謀事件にまきこまれて失脚し,母とともに自殺した。はじめ反逆の首謀者とみなされた藤原宗成が尋問の過程で伊予親王こそ首謀者であると主張したため,平城天皇は左中将安倍兄雄らをして親王らを捕らえ,母子を大和国川原寺に幽閉した。無実を主張する親王と母は飲食を断ち,親王の地位を廃された翌日,11月12日にみずから毒薬を飲んで自殺するという悲劇的な結末をとげた。…
※「藤原宗成」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」