世界大百科事典(旧版)内の藤屋吾妻の言及
【吾妻与次兵衛物】より
…人形浄瑠璃に脚色したのは,18年(享保3)1月《山崎与次兵衛寿(ねびき)の門松》(近松門左衛門作)に始まり,25年1月《昔米万石通(むかしごめまんごくどおし)》(西沢一風・田中千柳合作),49年(寛延2)7月《双蝶々曲輪日記(ふたつちようちようくるわにつき)》(竹田出雲・三好松洛・並木千柳合作)などがそれである。全盛の遊女藤屋吾妻を,山崎浄閑の息子山崎与次兵衛が身請(みうけ)したことから始まるが,享保のころの力士,濡髪長五郎,放駒長吉をからませ,与次兵衛を与五郎と改め,《寿の門松》に登場する難波屋与平が変化した南(なん)与兵衛,その愛人お早なども多く活躍する。《曲輪日記》系が中心になり,歌舞伎に数多くの書替狂言が作られた。…
※「藤屋吾妻」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」