世界大百科事典(旧版)内の蝦夷三官寺の言及
【国泰寺】より
…山号は景雲山。1804年(文化1)江戸幕府により,東蝦夷地の役人や漁民の定着,アイヌの人心を安定させる目的で,有珠の善光寺,様似の等澍(とうじゆ)院とともに蝦夷三官寺に指定された。住職は鎌倉五山から交代で選ばれ,その在任期間は7~10年。…
【等澍院】より
…帰嚮山と号す。1804年(文化1),江戸幕府により蝦夷三官寺の一つとして,民心の安定,アイヌの教化を目的に創建された。檀家のない寺院なので,幕府から年間米100俵のほか扶持米,手当金が支給された。…
【箱館奉行】より
…最初の奉行は戸川安諭(やすのぶ),羽太正養(はぶとまさやす)。 幕府は,蝦夷地支配の眼目をアイヌの〈懐柔・撫育〉にありとして,アイヌ交易の是正,風俗の同化,さらには教化を目的とした蝦夷三官寺(国泰寺,等澍院,善光寺)の建立などの政策を断行したが,蝦夷地支配の本来的な目的は,ロシアの南下に対する対応と蝦夷地収益の2点にあり,アイヌに対する政策も親露化の防止という観念から行われたものであった。また,蝦夷地の警備は弘前,盛岡2藩に命じ,非常時には秋田,庄内,仙台,会津諸藩にも出兵を命じた。…
※「蝦夷三官寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」