世界大百科事典(旧版)内の観阿の言及
【大部荘】より
…治承・寿永の内乱で東大寺が焼かれると,当荘は90年(建久1)東大寺大勧進俊乗房重源(ちようげん)に与えられ,重源の申請で宋人の鋳物師陳和卿(ちんなけい)にあてがわれた。重源は荘内に播磨別所としての浄土寺を建立し,甥の観阿を住まわせた。浄土寺浄土堂は94年10月上棟,97年8月に解脱(げだつ)上人貞慶(じようけい)を導師に迎えて落慶供養をしたもので,天竺様建築の遺構として有名,安置する本尊阿弥陀三尊像は快慶作,ともに国宝。…
【金春流】より
…《猿楽縁起》(金春禅竹筆,1468)による金春の家系は,毘沙王権守を秦氏安(村上天皇のころの人)より26代とし,長子光太郎(27代),その子毘沙王次郎(28代)と続き,29代を毘沙王権守の三男金春権守の子,弥三郎が継いでいる。金春権守は観阿弥とほぼ同時代の役者で《昭君》の作者でもあるが,大和猿楽の得意芸である鬼能に長じた長兄光太郎の没後は,円満井座を代表する棟梁の為手(して)であったらしく,金春の座名はその芸名に由来するとみられる。 金春権守の孫が中興の祖といわれた57世金春氏信(金春禅竹。…
※「観阿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」