世界大百科事典(旧版)内の護持院ヶ原の言及
【護持院】より
…しかし1717年(享保2)の大火で類焼すると,幕府の命により護国寺の域内に移された。あとに残った寺地は護持院ヶ原と呼ばれ,すこぶる佳景の地であった。のち護国寺を改め護持院と称したこともあるが,明治の初め両寺合併し護国寺に統合されると,護持院は廃寺となった。…
【原】より
…例えば,江戸時代の京都では,原のついた地名は真葛原(まくずがはら),大原(おおはら)のほかはまれで,野のついた地名(北野,平野,紫野など)が多いが,江戸では野のつく地名(上野,中野,武蔵野など)は少なく,原のつく地名が多かった。そのうち,土筆原(つくしがはら),小塚原(こづかつぱら),西原(にしがはら),信濃原(しなのはら)などは郊外にあったが,護持院ヶ原(ごじいんがはら),采女原(うねめがはら),柳原(やなぎはら)は市中にあった。護持院ヶ原と采女原はともに,享保年間(1716‐36)幕府が防火のために設けた市街地のなかの空地で,とりわけ火除地(ひよけち)のなかでも特に広かったので原と呼ばれたらしい。…
【火除地】より
…火除明地は幕府の薬園を兼ねたり,幕末になると武術の調練場に利用された。森鷗外の小説の題名にもなった護持院ヶ原(神田錦町)もその一つ。広小路は江戸期を通じて何回も改廃,新設が繰り返され,位置の移動も多かった。…
※「護持院ヶ原」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」