身池対論(読み)しんちたいろん

世界大百科事典(旧版)内の身池対論の言及

【日奥】より

…だが日奥はこの裁決直前に入滅,これを〈死後の流罪〉という。この身池対論裁決を幕あけに,以後江戸幕府の不受不施禁教政策がしだいに強化されるが,日奥は著述も多く,近世不受不施理論の大成者として大きな役割を果たした。主著に《諫暁神明記》《宗義制法論》《禁断謗施論》《門流清濁決義集》《守護正義論》がある。…

【日樹】より

日奥に学問的に私淑し,中山法華経寺日賢,小西檀林日領,本土寺日弘らとともに池上を中心とした関東学派の不受不施派を唱和し,本満寺日重,身延日乾らを中心とする身延・関西学派の受不施派と対抗した。ことに30年(寛永7)幕命により,江戸城内で行われた身池対論には不受不施派を代表して出席し,受不施派と激しく法論を行ったが,同派は禁教に処され,彼も信州伊奈に流された。著作に《留意要》がある。…

【日乾】より

…徳川家康の側室養珠院の帰依を受ける一方,27年(寛永4)には本阿弥一家の帰依を得て,鷹峰(たかがみね)に常照寺を創建して檀林を開いた。池上の日樹らが不受不施義を唱導すると,法弟日遠,その弟子日暹(につせん)らと受不施義をたてて対抗し,30年江戸城内で行われた身池対論の結果,日樹らが配流されたのち,幕命で京都妙覚寺に入った。著作に《西谷名目箇条》,《破奥記》《謗施受用論》などがある。…

【本門寺】より

…近世初頭京都で起こった日蓮教団における受不施・不受不施の論争や対立は東国でも起こり,その中心の一人に本門寺16世日樹がいた。1630年(寛永7)日樹は受不施派が占有した身延久遠寺の日暹(につせん)らと論争(身池対論)して敗れ,他の不受派の人々とともに流謫された。この結果,本門・妙本両寺は受不施派の代表者日遠の主管するところになったが,両寺の末寺はこのころ160余ヵ寺であった。…

【妙覚寺】より

…寺地の広さは洛中では東寺・相国寺・妙顕寺につぎ,地方末寺も多く,寺勢の強大さが知れる。江戸初期,住持日奥が幕府の弾圧にも屈せず不受不施の宗義を説き,受不施派の身延山と対立,1630年(寛永7)の身池対論(しんちたいろん)まで不受不施派の拠点となった。現存堂宇のほとんどは1788年(天明8)の大火後の再建。…

※「身池対論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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