近蝦夷地(読み)ちかえぞち

世界大百科事典(旧版)内の近蝦夷地の言及

【蝦夷地】より

…もっとも和人地内にも近世後期まで一定のアイヌが居住していたが,アイヌ民族全体からみれば,これは例外的な存在にすぎなかった。こうした地域区分策を実施したうえで,和人地に近い南部の蝦夷地を口(くち)蝦夷地・近蝦夷地,南千島を含む東北海道部を東蝦夷地・下蝦夷地,熊石以北宗谷までの日本海側および宗谷から知床岬に至る北海道西北部を西蝦夷地・上蝦夷地,樺太(現,サハリン)を当初カラト島・カラフト島,1809年(文化6)以降北蝦夷地と称したが,和人地の範囲が,近世初頭には西は乙部村,東は亀田以南の石崎村,17世紀末に西は熊石村,東は石崎村,1800年(寛政12)には小安~野田追間の箱館6ヵ場所の〈村並〉化に伴い東の境が事実上山越内(現,八雲町)まで北上するなど,若干の変動がみられたため,蝦夷地の南限も時代によって若干の変動がみられた。
[蝦夷地開発]
 近世における蝦夷地開発は,おおむね(1)近世初期~1798年,松前藩による蝦夷地支配の時期,(2)1799‐1854年(寛政11‐安政1),幕府直轄および松前藩復領期,(3)1855年~幕末,幕府再直轄期,の3段階を経て行われた。…

【ヘナウケの戦】より

…ヘナウケについては,セタナイの首長説,シマコマキの首長説の2説があるが,後者の見解が有力である。 戦いの主要な舞台となったセタナイは,中世末から近世初頭にかけて松前に近い近蝦夷地のなかではアイヌ民族の勢力が強かった地であった。しかも東部のアイヌが同地に交易に来るなど,アイヌ社会内部における一大交易地となっていたところでもあったが,松前藩が成立するや,同藩は寛永期(1624‐44)に集中的に,蝦夷地の各海岸部に相次いで一方的に交易場として商場(あきないば)を設置した(〈蝦夷地交易〉の項目参照)。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」