世界大百科事典(旧版)内の那須疎水の言及
【那珂川】より
…最上流部の板室温泉の北には川をせき止めた深山(みやま)ダムがあり,このダム湖を下池とし,東の那須岳西麓の沼原(ぬまつぱら)調整池を上池とする揚水式発電所の沼原発電所(最大出力67.5万kW)が設けられている。那須野原は酸性土壌の乏水地域で,那珂川から取水する那須疎水の建設(1880‐88)を機会に水田化が促進された。 那珂川の水は栃木県内では農業用水としての利用を主体とするが,茨城県内では水戸市,ひたちなか市など流域各地の上水道用水源となり,一部では工業用水としても用いられる。…
【那須野原】より
… 1880年に矢板武,印南(いんなみ)丈作が那須開墾社を組織し,那須野原西部に約3000haの官有地を借り開発を始めた。84年に陸羽街道(現,国道4号線),86年に東北本線が開通し,85‐88年に西岩崎で那珂川から取水し,那須野原全面に給水する那須疎水の本幹水路・分水が完成した。これによって大農場が増加し,扇央部の開発が進み,陸稲,タバコなどの畑作や牧馬による農業経営が行われた。…
※「那須疎水」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」