世界大百科事典(旧版)内の金輪王寺の言及
【吉野】より
… 吉野の地があらためて歴史の脚光をあびるのは,元弘の乱(1333)にさいし,護良親王が金峯山寺の大衆をたよって挙兵し,ついで後醍醐天皇の行宮(あんぐう)がおかれ南朝(吉野朝)の拠地となったことによってである。天皇は金峯山寺塔頭実城寺を行宮として金輪王(きんりんのう)寺と改めたが,ここで死に,塔尾陵が営まれた。高師直の焼討ちの後,行宮は各地を移動した。…
【吉野山】より
…歌枕でもあり,吉野の桜を詠む歌は《古今集》に始まるが,平安中期まではむしろ山岳信仰と結びついて雪の山として詠まれることが多かった。吉野の桜を賞した人々は西行をはじめ多数知られ,蔵王堂近くにあった金輪王(きんりんのう)寺を行宮(あんぐう)とした後醍醐天皇は〈ここにても雲居の桜咲きにけりただかりそめの宿と思ふに〉(《新葉集》巻二)と詠じている。国の史跡,名勝に指定されており,吉野熊野国立公園の北端をなし,近鉄吉野線吉野駅から吉野山駅までケーブルが通じる。…
※「金輪王寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」