世界大百科事典(旧版)内の鈴法寺の言及
【虚無僧】より
…様相は,はじめ普通の編笠をかぶり,白衣を着ていたが,江戸時代には天蓋(てんがい)と称する筒形の深編笠をかぶり,黒衣に絡子(らくす)をかけ,丸ぐけ帯をしめ,手甲(てつこう),脚絆(きやはん)をつけ,下駄をはき,木太刀をもつ伊達(だて)姿となっている。また虚無僧の普化宗は,金先(靳詮)派,活総(火下)派,小笹(司祖)派,小菊(夏漂)派など諸派を形成し,それら諸派のうち七派だけでも幕末に92ヵ寺を数え,下総の一月寺と武蔵の鈴法寺および京都明暗寺が普化宗本寺触頭として統轄した。1614年(慶長19)の虚無僧掟書によると,武者修行の宗門と心得て全国に自由往来することが許可されている。…
【普化宗】より
…中世には薦僧(こもそう),暮露(ぼろ)などと称され,普化宗の徒は漸増したとみられるが,普化宗を公称し,一宗として展開をみるのは近世に入ってからである。1614年(慶長19)武蔵藤袴の鈴法寺が吉野織部によって青梅に移建されて道場となり,下総の一月寺とともにさかえた。一月寺を中心とする一派を靳全派(金先派),鈴法寺の一派は活総派(火下派)といい,また京都の虚鈴山明暗寺の一派を寄竹派(派祖天外明普),上野太田の理光寺の一派を小笹派(司祖派),同じく高崎の慈高寺の一派を梅地派(梅士派),常陸下妻の心月寺の一派を小菊派(夏漂派)と称し,普化宗の諸派中これらを普化宗六派といっている。…
※「鈴法寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」