世界大百科事典(旧版)内の鍾美館の言及
【画学校】より
… 洋画界がふたたび活況を示す明治20年(1887)前後には,渡欧画家の帰国が相次ぎ,その主導のもとに前代の私画塾とは質的に異なった画塾,画学校が出現するに至る。87年独仏からそれぞれ帰国した原田直次郎の鍾美館,山本芳翠の生巧館画学校,92年松岡寿が創立した明治美術会美術学校などがそれである。鍾美館には和田英作,三宅克己,生巧館には藤島武二,湯浅一郎ら,次代を担う画学生が学び,浅井忠も指導した明治美術会美術学校は,96年東京美術学校に西洋画科が設置されるまで,不備ながらその代役をつとめた。…
【原田直次郎】より
…87年帰国。翌年画塾鍾美館を開設して後進の指導にあたり,明治美術会の創立に際して中心的な画家の一人となる。90年第3回内国勧業博覧会に出品した《騎竜観音》は,ドイツ風の重厚な写実主義と歴史画研究の成果を結集し,大きな反響をもたらすが,森鷗外と外山正一との間に歴史画論争を引き起こす。…
※「鍾美館」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」