世界大百科事典(旧版)内の長和荘の言及
【草戸千軒】より
…国宝)の門前町とも,当時奥深く湾入していた福山湾西岸の港町とも推定されてきた。現在までの調査・研究から見るかぎりこのいずれとも決しがたいが,遺跡の後背地には1141年(永治1)ころ藤原惟方から歓喜光院に寄進され,のち八条院や昭慶門院など諸皇室に伝領され,領家職が安居院悲田院であった長和荘があり,またこのあたりのことと思われる地名,すなわち草津・草井地・草出(くさいつ)・草出津など港ないし市場を想起させる地名が散見し,出土木簡の中にも〈きのしやう〉や〈さかへ〉など近隣の地名の記されたものがあることからみて,長和荘の年貢積出港として成立し,その後近隣諸村の集散地的な役割を果たしていたものと推定される。出土遺物から推すと分業関係はかなり進んでいたものと思われる。…
※「長和荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」